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仏の覚体は『智恵』と『慈悲』です。
何者も恐れず邪を破る厳しい『智恵』の面と、どんな人をも包み込む優しい『慈悲』の面と、その両方を兼ね備えたのが仏の悟りを開かれた方です。
今回は「智恵と慈悲」をテーマにお話しいたします。

仏の脇士(わきじ)は智恵と慈悲の象徴

仏像の両脇に菩薩が並ぶ彫刻を観られた方も多いと思います。
弥陀三尊像、釈迦三尊像などといわれますが、これら仏の両脇の菩薩を『脇士(わきじ)』といいます。
阿弥陀仏なら観音菩薩と勢至菩薩、釈迦仏なら普賢菩薩と文殊菩薩です。
観音菩薩は慈悲をあらわし、勢至菩薩は智恵をあらわします。
慈悲深い人を「観音のような人」と評したり、智恵第一の法然上人を「勢至菩薩の化身」といわれたのも、こういうところからです。
釈迦仏の脇士では、普賢菩薩は慈悲をあらわし、文殊菩薩は智恵をあらわします。
「三人寄れば文殊の知恵」ということわざもありますね。
普賢菩薩は象にまたがり、文殊菩薩は獅子にまたがっている彫刻や絵もあります。
獅子は仏の智恵の象徴として表し、象は仏の慈悲を表しているのです。
あなたも近くの寺院の寺の瓦が獅子や象の形をしているものがあったり、香炉の取っ手が獅子の像になったりしているのを見られたことはありませんでしょうか。
獅子は百獣の王です。
獅子が吼えると、ジャングルの動物がみな震え上がる。
百獣の王、獅子に恐れるものがないように、仏の智恵は、人々のさまざまな迷いを打ち砕いて目を覚まさせる。
仏の説法を『大獅子吼(だいししく)』といわれる所以です。
一方、象は力は強くても気が優しく温和で、悠々と密林をふみしめて歩いていきます。
仏の心を体得する人はこの慈悲と智慧の両面が現れます。
その慈悲の面があらわれれば、やさしい温かい人間像となり、智慧の面が輝けば、きびしい、はげしい人間像となります。
しかし優しさ、温かさという慈悲の面も、智恵に裏付けられた慈悲であって、溺愛、甘やかしではありません。
はげしさやきびしさという智恵の面も、慈悲によって裏付けられたものですから、我執我慢を通すためのものではないことを銘記しなければなりません。
私たちも仏心には遠く及ばねども、優しい面と厳しい面と両方兼ね備えてこそ、好かれ、慕われ、尊敬されるようになります。
いくつかの事例を通して、智恵と慈悲の大切さをお話ししてまいります。

理想のパートナーはなかなか両立しない智恵と慈悲

「オレについてこい」とリードしてくれる頼りがいのある人は、実行力があり、かっこいいですが、反面、周りの人の気持ちを考慮せず、ワンマン体質がけむたがられたりもします。
強い信念を持って自分の道を貫いた歴史上の人物にも、その周りでさびしくつらい思いをした人がいるものです。
包容力のある優しい人は、相手の気持ちを慮り、居心地がいいですが、反面、周りに流されたり、人の顔色をうかがってばかりで、何か頼りなく感じます。
周りの人と強調して上手くやっていこうと努めていくと、その時代、その場所の雰囲気に流されて人生を終えていきます。
えてして、頼りがいのある人は優しくなかったり、優しい人は頼りなかったりするものです。
ところが女性に「理想の男性は?」と訊くと「優しくて、頼りがいのある人」と無茶苦茶な返事が返ってくる。
しかし男性はここで「無茶なことを言うな」と愚痴っていてはいけない、やはりこの両面がどちらも大事なのでしょう。

 

リーダーに求められる智恵と慈悲

リーダーは暇そうにしていろ、とどこかの本の見出しにありました。
忙しそうで声をかけられないと、部下も委縮し、気軽には相談できず、意見や報告も言いにくくなります。
だからどんなに忙しくても、少しも忙しくないような態度、表情に努めなければならない、とありました。
部下の意見に耳を傾け、現場の悩みもよく聞き、客のクレームやアンケートも受け止める度量というのは、リーダーにとって欠けてはならない資質の一つなのでしょうね。
西郷隆盛は茫洋とした風格があり、何事も部下に一任し、周りがやりやすいように調整する人物であったようです。
そんな西郷を幕末の志士たちは絶大に信頼し、リーダーと仰ぎました。
一方、優れた経営者、リーダーに欠かしてはならない資質として『率先垂範』が挙げられます。
危機感や理念、思いを一人ひとりの社員に伝えるために自らが汗を流す。
果断に行動し、己に厳しくあれば、その姿に部下も襟を正され、組織全体が凛とした緊張感をもって任に当たるようになる。
これもまたリーダーシップには欠かしてはならない資質といえます。
『率先垂範の姿勢』と『部下の意見をよく聞く姿勢』は相反するようですが、その二面性を兼ね備えたリーダー像が求められます。

 

叱責には、智恵と慈悲がなければならない

どなられたり、叩かれたり、冷たくあたられたりすることが、あなたにもあったと思います。
たいていは憎しみ、怒りから、そうなるのが普通でしょうが、そんな場合ばかりではありません。
『憎くては 叩かぬものぞ 笹の雪』という歌があります。
竹が雪の重さでしなる、そんな時。
ほおっておくと竹は折れてしまいます。
そこで雪を落とそうと、竹を叩いている
その叩いている姿だけ見ると、憎くて叩いているのか、竹に恨みでもあるのだろうか、と思えますが、実際は「竹がかわいいから」していることです。
折れたら竹が死んでしまう、そうならないよう雪をおろして助けてやろう、とのことです。
人が自分に注意するとき、幸せにしてやりたいと思っての言動もあるということです。
たいていは心の冷たい 心の狭さから、そういう言動になるのですが、そうでないこともあるということを知っておきたいものです。
私に注意してくださる人は、竹を叩いてくださる人です。
憎ければ雪積もって折れてしまうのですから。
注意してくれる人に感謝しなければなりません。
医者が患者に「これ以上食べたら駄目だよ」と厳しく注意するのもありがたいことです。
「好きなだけ美味しいもの食べなさい」と医者が言うのは、医者がさじを投げた人、死ぬのを待っている人、ということでしょう。
「何でも食べたらいいですよ」と言われたら、覚悟しなければならない人です。
せめて最後くらい自由に、とのことだから、「食べさせてくれない!」などと恨むどころでない、心配してもらっていることを感謝するところでしょう
「あーしなさい、こーしなさい」と干渉する人は、何とかしようと自分のことを思っていてくれている人なのです。
「父は打ち 母はいだいて 悲しめば かわる心と 子や思うらん」という歌があります。
子が過ちを犯せば、父は打ち、母は抱いて悲しむという歌です。
私は小さいころ、何をしたかは忘れましたが(たぶん母親に悪態ついたかだと思います)、何回か父親に担がれ、家の外に出されたことがあります。
玄関を締められ、ワンワン泣いて玄関の戸を叩いても開けてもらえず、寒い冬の日だったこともあり、ギャーギャー言っていた時に、母親が裏口の玄関を開けてそっと家の中に入れてくれ、あったかいスープを飲ませてくれたという思い出があります。
「かわる心と 子や思うらん」
そんな時、子供は、父親は自分が嫌いなんだ、母親は自分が好きなんだ、父と母では自分への気持ちが違うんだ、と思ってしまうだろう、と歌われています。
子供には、叱咤と抱擁にともにある、海より深い親の愛情が分からないのです。

 

まとめ

仏の覚体は慈悲(やさしさ)と智恵(きびしさ)です。
仏の慈悲と智恵の働きで陰に陽に導かれ、一人一人が真の救済に預かるのが仏教です。
本当の幸せまだ導く仏の智恵と慈悲を、しっかりと学んでください。

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