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人が亡くなると必ずなされるのが葬式・法事です。

葬式を立派にするのが一番の供養だ、とか、法事は何周忌まではしたほうがよいとかよく言われますが、それが亡くなった人にとって、どんな意味があるのでしょうか。
なぜ私たちは、葬式や法事をしなければならないのでしょうか。
そもそも仏教を説かれたお釈迦さまや親鸞聖人は、葬儀についてどう教えられているのでしょうか。

今回は浄土真宗での葬式・法事の意義について解説します。

なぜ人は葬儀をせずにおれないのか

葬儀をしたくなる心情はよく理解できます。

「孝行のしたい時分に親はなし」
親が生きているうちは、なかなか子供に親の恩は分かりません。
老いた親を孤独で寂しい家に一人放置し、ろくに訪ねることもなければ、電話もかけない。病になっても看病もしない。

そんな不孝な子も、親を失った時に初めて、何もしてあげられなかった過去を
“ああすればよかった……”
“こうもしておけば……”
やり場のない後悔がとめどもなくあふれるものなのでしょう。

墓に布団も着せられず、遺骨にごちそうも食べさせられず、どうしたらこのやりきれぬ気持ちが落ち着くのか、恩に報いることができるだろうか、と思い悩むのは人の子として当然の情です。

世の中には「お経さまだけが死人のごちそう」「盛大な葬式をしなければ死んだ者が浮かばれない」と言う人もあり、立派な葬式や法事を勤めるしか親の恩に報い、このやりきれぬ気持ちを静める方法はないと思われがちです。
そのように教える僧侶がたくさんいるのも、否定できない事実のようです。

はたしてそれらの僧侶の言うように、盛大な葬儀をして、立派な墓を建てることが、亡くなられたお父さんやお母さんの供養となるのでしょうか。
ご恩返しになるのでしょうか。

葬儀は亡き人のためになるのか

亡き親や先祖の恩に報いようとする時に、まず知らなければならないのは、親の最も喜ぶことは何であるか、先祖の最も望んでいることは何か、ということでしょう。

お世話になった方にお礼をしようと、奮発して高価なブランデーを贈ってみても、そのご本人が酒を飲まない方だった場合、喜んではもらえません。
その方が好きな物、もらってうれしい物を贈ってこそ、喜ばれ、ご恩返しになるのです。

それと同じことで、親や先祖の望まないことを、どれだけお金をかけてやったところで喜んではもらえません。
亡くなった親や先祖に喜んでもらいたければ、相手がいちばん望むことは何かをまずよく知り、その通りにすることでしょう。

では親が子供たちに望み求めることは何でしょう。
○子供が毎日笑っていられること。
○健康で元気でいてくれたら
○自分はこの道を選んだことは間違いなかった、と思える人生を送って欲しい。
○人の痛みのわかる心の優しい子になってほしい
○友人を大切にする人に

いろいろあがってきますが、せんじ詰めれば「子供たちよ、正しく生きてくれ、真の幸福者になってほしい」ということではないでしょうか。
それはあえて、亡くなった先祖を呼び出して尋ねてみるまでもなく、私たちが子供に何を望み、願っているかを考えれば分かられると思います。

私たちが子孫に切望することはただ一つ。
「正しく生きよ、幸福になれかし」これに尽きると思います。

ならば私たちが一人一人胸に手を当てて
「親が悲しむような、恥ずかしい生き方をしていないだろうか」
「親が今の自分を見たら、目を細めて笑顔になってくれるような人生を送っているだろうか」
と自問してみることです。

「幸せかい?」と尋ねられた時、心から「うん、ありがとう」と言えるだろうか。
生んでくれてありがとう、育ててくれてありがとう、と心から感謝できるだろうか。

仏教では『人身受け難し 今已に受く』人間に生まれてよかった、と生命の歓喜を受けることこそ、亡くなった人の最も喜ぶ最高の供養となるのだよ、と説かれているのです。

葬儀をおろそかにすると、先祖のたたりがある?

このことが分かると、「先祖のたたり」も「おかしなことだと分かります。

私がまだ子供のころ、霊能者が「死んだお祖母ちゃんが孫の○子ちゃんを、あっちの世界にひっぱろうとしています」と怖い顔でお母さんに語り、聞いたお母さんが涙目でおろおろしている、という映像がテレビであったのを、今も心に残ってます。

「墓を大事にしてますか」
「いいえ」
「先祖の供養をおろそかにすると・・・」
「はい・・・はい・・・・」
こんなやり取りが続きました。

霊能者の元に来るのは、不幸や災難が重なり「どうして自分ばかりがこんな目に。。」の答えが知りたいと思ってのことですから、つい霊能者の言葉にすがってしまうのです。
「そうか、先祖供養しなかったから先祖がたたっているのか」

でも考えてみてください。
親の不幸を願う子供がいるでしょうか。
子供の幸せを一心に念じるのが親でしょう。
子供の幸せ、孫の幸せ、そのことのためなら、自分の身を捨ててでも、というのが親です。

先祖といったら、両親であり、祖父母です。
子供の不幸を願って、苦しめる先祖がいるというのはおかしなことです。

親や先祖は一心に子供、子孫の幸せを念じて、生涯を終えてくださった方々なのですから、私たちが真の幸せを体得してこそ、ご恩に報いることになるのです。
これ以上の、先祖に対する供養も親孝行もありません。

 

お釈迦さまは読経が供養になるとは説かれていない

親や先祖の喜ぶことは何か、を考えれば、供養や葬儀はどうあるべきか、自ずと見えてきます。

たとえば読経が死人に対する一番のご馳走だ、という人は多いですが、これについてもお釈迦さまは否定されています。

ある時、釈尊に一人の弟子が「死人のまわりで、有り難い経文を唱えると、死人が善い所へ生まれ変わるという人がありますが、本当でしょうか」と尋ねたことがありました。
その時、釈尊は黙って小石を一個拾われて、近くの池に投げられました。
水面に輪を描いて沈んでいった石を釈尊は指さされて、こう問われています。
「あの池のまわりを、石よ浮いてこい、浮いてこいと唱えながら回れば、石は浮いてくるであろうか」

石は、それ自身の重さで沈んでいったのだ。
人間もまた、自業自得によって死後の果報が決まるのだ。
経文を読んで死人の果報が変わるはずがないではないか、というのが釈尊の教えです。

読経や儀式で死者が救われるという信仰は、もともと仏教にはなかったのです。
それどころか、そんな迷信を打ち破って、生きている時に、絶対の幸福に導くのが仏教の目的なのです。

お経は、苦しみ悩んでいる人間を幸福にするために、釈尊が説かれた教えを弟子たちが、後世の私たちのために書き遺したものです。
だから、当然ながら死人に説かれたものはありません。
あくまでも、現在、苦しみ悩める人々を真実の幸福に導くために、書き遺されたものであることを知らなければなりません。

真の葬儀の意味とは

では、葬式や法事や読経は、全く無意味なことかといいますと、それは勤める人の心がけによると教えられています。

厳粛な葬式や法事のときは、あれも忙しい、これも忙しいと、普段、なかなか自分を振り返ることのない人でも、亡くなった人を通して、人はやがて死んでいかねばならないことを目の当たりにし、必ず終わりがくる人生を真面目に考えずにおれなくなります。

人生でなすべきことは何か、後悔のない人生を過ごすにはどうすればいいかを教えられたのが仏教です。

葬式や法事はただの読経と儀式で終わらず、遺された私がどうすれば本当の幸せになれるかを、仏教を聞いて学ぶことができるならば、本当に意味のある葬式、法事となるでしょう。

 

大切な人を失い、やり場のない悲しみに暮れたとき、どうすればいいのか

私の仏教講座に来られる方の中にも、大事な人を亡くした、やり場のない悲しみを抱えられた方々が時々来られます。
「供養になればと朝晩にお仏前で勤行しているうちに、お経の意味が知りたくなりました」と言われる方も先日ありました。
高校生の息子さんを交通事故で亡くされたお母さんでした。
亡くなられた子供さんが引き合わせることになった尊い仏縁です。
子供さんに合掌せずにおれない気持ちになります。

また定年退職を迎え、仏教講座に来られるようになった方から「子供のころ、母が仏前で正信偈をお勤めしていたのを思い出すが、今頃になってあの意味が知りたくなって」と言われるのもよく聞きます。
これも亡きお母さんが導いて下された仏縁でしょう。

【夢の世を あだにはかなき 身と知れと 教えて還る 子は知識なり】

子供が不幸にも先だつと、身を責め悲しむ親は、はかなく終えたわが子の不憫さに、人生の意味を問うようになります。
やがて幸いにも仏縁を結び、往生極楽の道を知った親は「この大事、教えて還る子は知識(師)なり」と感涙せずにおれなくなります。
故人を縁に、仏法に目覚める尊さを歌っている歌です。

亡くなったその大切な人は、私に大切なことを教えてくださった恩人なのですよ、と仏教では説かれているのです。

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