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仏教に「会者定離」という言葉があります。
会った人とは、いつか必ず別れねばならない”ということです。
いうまでもなく、人生とは出会いと別れの連続です。
「はじめまして」と挨拶したあの時は、まさかこの人とこんなことになるとはなぁ、としみじみ感じ入るような出会いもあります。
「どうしてあの時、あそこで、あの人と会えたのだろう。ああ、もしあの人と会えなかったら、今ごろ自分はどうなっていたことだろう」と感謝の念いあふれる出会いもあるでしょう。
逆に「なんであの時、あそこであんな奴と出会ってしまったんだろう。あれがもしなかったら、今ごろこんなことには絶対なっていなかったのに」と悔やんでも悔やみきれない出会いもあるかもしれません。
大切な人との出会い、嫌いな人との出会い、人生にはいろいろありますが、いずれにせよ、出会った人とは、いずれ別れるときがあります。
大切な人とはいつまでも一緒にいたいですが、それは通りません。
会者定離の世の中、必ず別れがあります。
嫌いな人ともずっとこのまま続くことはありません。
しばらくの間です。
今日は「会者定離」とはどういうことか、いくつかの事例から学びましょう。

会者定離の人生は電車の旅のようなもの

人生の出会いと別れは、ちょうど電車の旅に例えられましょう、
電車で旅する時、ある駅で自分が乗り込んだ車両には、すでに多くの人が乗っています。
一駅一駅着く度にドアが開き、何人かが降り、何人かが乗ってきます。
駅で乗り降りが繰り返され、最初に車両に乗っていた人はだいぶ降りていき、乗客の顔ぶれもずいぶん変わっていきます。
やがて自分の降りる駅に着きます。
自分が降りた後も、今まで乗っていた車両は、たくさんの乗客を乗せて、わいわいがやがやと去って行きます。
さて、この電車の旅は、どう人生を例えているのでしょうか。
私たちが生まれた時が、電車に乗り込んだときです。
その時、すでに人生の車両に乗っていたのが、両親であり、祖父母、あるいは兄や姉です。
入学式、卒業式、入社や転職、引越しなどのたびに、私たちは出会いと別れを繰り返します。
ある駅で生涯の伴侶となる人が乗ってきます。
それから数駅行くと、ある駅で自分の子供が乗ってきます。
「こんにちは、赤ちゃん、私がママよ」という時が、子供が自分の車両に乗り込んできたときです。
どこかで自分の両親も降りていきます。
「わしら、もうこの辺で降りなければならないから。あとはお前たち、しっかりやってくれ」
このように、いつまでも一緒にいたい人も、降りる時がきたら、降りていきます。
いつかは【自分自身】が降りねばならない駅に着きます。
自分が駅に降りた後も、車両の中に子や孫を乗せ、次の駅にと向かっていくのです。
このように、どんなに大好きな人でも、嫌いな人でも、人生という電車の何区間かを共にした、ということであって、ずーっと一緒に居続けられる人、というのは一人もいないのです。
いつか必ず別れがあります。
まさに人生は出会いと別れの連続、これを「会者定離」といいます。

 

会者定離 ありとはかねて聞きしかど

親鸞聖人は35歳で、権力者の弾圧により、北陸路・越後へ流刑となられました。
同じ時期、恩師である法然上人は、四国の土佐へ流刑になっておられます。
法然上人は当時75歳、遠く離れて西東、生きて再びお会いできないかもしれない、これがお師匠さまとの今生最後のお別れなのか、と親鸞聖人はひどく嘆かれ、悲にみの涙に暮れるのでした。
その時の、生木引き裂かれる悲痛なお気持ちを歌われた親鸞聖人のお歌がこちらです。
「会者定離 ありとはかねて 聞きしかど 昨日今日とは 思わざりけり」
「会者定離」とは仏教の言葉で、“会った人とは、いつか必ず別れねばならない”ということ。
私たち日本人は仏教国に生を受けましたから「会者定離」という言葉はご存じの方は多いと思いますし、意味を聞いても、理解できないという方はないと思います。
親鸞聖人は9歳で出家されてより、仏教を学んでこられた方ですから、私たち以上にかねてより「会者定離」の仏教の言葉は、よくよく聞いておられた方です。
ところがそんな親鸞聖人も、生涯おそばにあってご教導を受けたいと深く敬慕しておられた法然上人と別れねばならなくなり、その悲しみが歌われています。
「覚悟していたことではございますが、あまりにも……、あまりにも、早すぎます……」  
みなさんでも思わぬことで、最愛の人、大切な人と別れた経験のある方は、この親鸞聖人のお歌に共感されるのではないでしょうか。
考えたくないことですが、あなたにとって今、一番大切な人とも、やがて必ず別れねばならないときがあります。
何人も避けられません。
誰しもが覚悟しておかねばならないことです。
しかしどんなに覚悟しているといったところで、やはりこの時の親鸞聖人のように、まさかこんなに早くその時がやってこようとは、と現実が受け止められず「早すぎる、嫌だ、嫌だ」と悲泣せずにいられないものなのでしょう。

 

別れの中でも特につらいのは死別

海外居住、卒業式などで、好きな人と別れる時は辛いですが、生きているなら、また再会できます。
別れの中でも、特に辛いのは、死別でしょう。
散った桜は来年には咲きますが、消えゆく命は二度と戻りません。
もう一度会いたいと、どれだけ遺体にすがって泣き叫んでも、かなわないその厳然たる事実が、さらに人を涙の谷底に突き落とします。
もう10年くらい前の話ですが、30代で最愛の夫を突然の交通事故で亡くし、女手一つで二人の子供を育て、ようやく下の子が大学に入り、「時間ができたので」と仏教講座に来られた女性が言われていたことが、今も心に残っています。
「夫を亡くしたとき、あの人一人だけがいなくなったのではなく、家族みんなを包んでいる空気ごと、あの人はあの世に持って行ってしまった」と言われていました。
考えたくないですが、死は万人の将来ですから、大切な人ともやがて必ず別れる時があるのを誰しも覚悟しておかねばなりません。

 

一期一会の旅だからこそ思うこと

「月日は百代の過客にして、往きかう人もまた旅人なり」(松尾芭蕉)
人生はよく旅にたとえられ、人間を旅人にたとえられます。
旅にたとえられるのは、旅にさまざまな出会いがあり、別れがあるように、人生は出会いと別れの連続だからです。
3年前ですが、小学校3年生の時の担任の先生がフェイスブックから「菊谷隆太君ですか」とメッセージを送ってこられて、びっくりしたことがあります。
たった1年間、そんな個人的に話したこともない一生徒を覚えていてくれたことに感激し、「教師ってすごいな」と嘆息しました。
私を担当されたとき、その先生はまだ大学出たてでしたが、今は結婚されて姓も変わり、転職されていました。
いつか直接お会いできたらいいなと思います。
こんなパターンは珍しい方かもしれません。
私は子供の頃、2回引っ越したこともあって、幼なじみとはもう40年近く顔を合わせず、音信もないですが、ほとんどの人とは、二度と会えないような気がしてます。
その後も中学、高校と、打ち解けたり、ぶつかったり、いろいろな人との思い出もあり、「あいつ、どうしてるかな」とふと思うこともあっても、再会できる日がくるかどうか。
また同窓会などで会えればいいのですが、一生涯、再会できずに終わる人が多いと思います。
あの時はあんなに好きになったり、嫌いになったり、葛藤したり、陰に陽に私の人生に影響を与えた人たちですが、今となっては、どこで何をしているのやら・・・
そう考えると、今、私の近くにいて、泣いたり、笑ったり、怒ったりしている人たちも、やがては「どうしてるかな」と、懐かしく思い出す人となっていくのでしょう。
江戸時代、街道筋を旅する人が、旅先の宿屋で同宿して、囲炉裏を囲んで酒や煙草をのみながら、旅の思い出などを語り、朝が来るとめいめいの方向に歩いて、もう二度と会わない、そんな一夜の旅の道連れが、人生で出会う人、といえましょう。
いずれにせよ会者定離。
出会いがあれば、必ず別れもあります。
『会者定離 ありとはかねて 聞きしかど 昨日今日とは 思わざりけり』
大切な人との別れはひょっとしたら今晩かもしれません。
『一期一会』という言葉もあります。
好きな人ともしばらくの間。
嫌いな人ともしばらくの間。
いずれも、かけがいのないご縁と向き合っていきたいものです。

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