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「私はこんなにあの人のためにしているのに、なんであの人はあんな態度しか取れないんだろう」
と悲しくなることがあります。
その人のためと思ってやっているのに、いつしかその人を責めている自分の心にも嫌気がさします。
そんな心で苦しくなったとき、私たちはどうしたらいいのでしょうか。

 

お釈迦さまは「三輪空に心がけなさい」と教えられています。
『三輪空』とは、どういうことか、お話ししてまいります。

 

三輪空はどんなときに実践すべきか

「手作りのクッキーを娘が焼いたんで、隣の家におすそ分けと思って娘に持って行かせたけど、翌日、隣の家の○○さん、私と庭先で顔合わせても、ありがとうの一言もないのよ」
とぼやいている奥さんがいます。

 

「こんな思いするくらいなら、持ってゆかねばよかった」とムカムカし、
「そうだ、あんな人に持ってった自分が悪かったんだ」と独り合点する。
それでも後日「あァ、こないだのクッキー、固かったでしょう?ごめんなさいね」と、みえみえの礼の催促を始めます。

 

これはこの奥さんだけでなく、どこにでもある光景です。
私たちは人に親切したとき、どうしてもお礼を期待する心が出てきます。
だから相手がうっかり〝ほめもせず〟〝感謝もしない〟と、とたんに腹が立ってくるのです。

 

ここにお釈迦様は
『見返りを期待する三つの心を忘れなさい』
と三輪空を教えておられます。
では三つの心とは、どんなことなのでしょうか。

 

三輪空の「施者」

布施(親切)をする時、○施者、○受者、○施物、この3つを忘れなさいと説かれているのが、お釈迦さまの「三輪空」の教えです。
まず最初の「施者」について話します。

 

「施者」とは「私が~してやった」ということ。
私たちはたまにいいことすると「それ私がやったんです」と言いたくなります。
自分から言うと露骨な自慢なので、誰かに言ってもらいたいと思います。
誰も言ってくれなければ、遠まわしに自分がした行為だと主張します。

 

『オレオレ詐欺』ならぬ、『あれオレ詐欺』というのもあります。
自分が手がけたことでない仕事、自分の提案したアイデアでなくても、「あれオレがやりました」と主張するところから『あれオレ詐欺』。
自分がやったことじゃないことまで「自分がやった」と主張してしまうのが私たちなのですから、ましてや自分が努力して会社に貢献できたこと、知られたらみんなが感心してくれるうな善いことをした場合は、何とか周りに自分がやったということを伝えたいという気持ちになるものです。
知らせることができなかったら、損をした気分になります。

 

その「私が~したんだ」という心を忘れる、それが三輪空の一つ目です。
なかなか忘れられないことを忘れようとするのですから、簡単ではありません。

 

「『オレが、オレが』の『我』を捨てて、『おかげ、おかげ』の『下』で暮らせ」という言葉もあります。
「オレがいなければ何もできないくせに」「いつもオレばかりが苦労している」と思っている『オレが、オレが』の『我』を捨てて
「周りのおかげで上手くいっている」「みんなが苦労してくれたおかげでできた」と感謝していく。
これはそう思うように努めよう、というよりも、たいていの場合、それは事実です。

 

三輪空の「受者」と「施物」

次の【受者】とは、「あなたに」ということです。
「あなたにしてあげたんです」と相手に言いたい。
「ほかでもない、君のためだったんだよ」と確認したい。
相手からお礼がないと、「お前、涼しい顔しているけどねえ、誰のためにこんなことしてやってると思っているんだ」とわからせたくなります。

 

この人、大変だろうな、と気の毒になって親切をしたのに、相手がうっかりほめもせず、感謝もないと「誰のためにやったと思ってるんだ」と怒りがこみ上げてきます。
怒りに身を焦がさないためにも、「あなたに~したんだ」という心を忘れていきなさい、と釈迦は説かれました。
これが三輪空の二つ目です。

 

三番目の【施物】とは「何々を」ということ。
私たちは人に親切をした時、「私はあの人にこんなことまでしたんだ」と親切の中身を言いたくてしかたない。
「自分だってお金と時間が有り余ったからそういう親切したんじゃない。こんな事情があっても、あなたのためと思ってここまでしたのに」と延々とその苦労を語りたくなります。
その「何々をしてやった」という心を忘れる、それが三輪空の三つ目です。

 

三輪空とは何か、一つ一つ見てまいりましたが、このように、私が、誰々に、何々を「してあげた」と主張したくて仕方がないのが私たちなのです。
みっともないから、とたとえ口では言わなくても、心の中ではもう忘れられないものがあります。
そしてその心が、怒りの元となっていくので、恐ろしいのです。

 

「なんであんなに声を荒げてしまったんだろう」
「あそこまで責めなくてよかったじゃないか」
自分の心を反省してみると、
(これだけ面倒見てやっているのに)
(これだけ心配してやっているのに)
「やっている」の恩着せ心に、怒りの原因があったことを反省させられます。

 

大切な人だからこそぶつかり合う

ある姉弟の会話のやり取りを通して『三輪空』を学んでみましょう。

弟「姉さーん、英語の宿題が難しくて分からないんだ。ちょっと教えて」

姉「ごめん雄太、明日締め切りのレポートで今ちょっと手が離せないの」

弟「そんな~、10分でいいから手伝ってよー。 この前、急に雨が降ってきた時、駅まで傘を届けてあげたじゃないか~」

姉「それはそうだけど……あの時の借りは今度ちゃんと返すから。今日はごめんね」

弟「えー、僕だって忙しかったけど、姉さんが困っていると思って、わざわざ行ったんだよ~。それなのに……」

姉「もう!しつこいわね。そんなに恩着せがましく言うのなら、私が前に宿題を手伝った時、礼の一つでも言ってくれたかしら?」

弟「なんだよ!もう二度と傘届けないからな!」

こんなやりとりあったなあ、と思い出されてきます。。。

 

家族だったり、職場仲間だったりすると、お互い支え合う場面が多いですから、つい相手がしてくれないと「いつも~してあげているのに、私には何もしてくれないなんて勝手だ!」と怒りに転じる場面が多くなります。
弟さんなら、お姉さんが困っているんだろうなと思って、雨の中、忙しいのに傘を届けに行ったんでしょうね。
お姉さんを想う気持ちがなければできないことです。
お姉さんもよく宿題を教えてあげているんでしょうね。
私の場合、妹の勉強の面倒見た記憶ないので、このお姉さんは弟思いのいいお姉さんだと思います。

 

大切な人だからこそ支えている、それがゆえに、腹が立ってくるのです。
赤の他人には腹が立たないものです。
家庭とか職場とか、身近な人、大切な人ほど、腹が立ってくる。
そしてけんかになる。

 

相手が自分に向けて怒りをぶつけるのもその多くは、その人が自分を支えようとしているからこその裏返しでありましょう。
その人にとって大切な人だからです。

 

親切が問題ではなく、三輪空ができていないのが問題なのだ。

ある慈善家が年末に、生活に困っている人たちに餅をついて贈っていたそうです。
最初の二、三年は、感謝状が寄せられました。
しかしそれも毎年続くうちに「今年も、そろそろ送ってくるころだ」「今年の餅は小さいなぁ」と不満の声まで聞こえてくるようになり、腹を立てた慈善家は餅のプレゼントを打ち切ったといいます。

 

その慈善家も「かわいそうに。せめて正月だけでもいい思いを」と同情し、自分のできることを、との動機から始めたことでしょう。
しかもそれを毎年毎年続けていくことは、よほどの気持ちがなければできません。
一回二回なら気持ちが高まってできることはあっても、続けるのはよほど心がないとできません。
それなのに相手が〝ほめもせず〟〝感謝もしない〟ものですから、腹が立ってきたのです。

 

「あんなにしてやったのに」
「これだけしてやっているのに」
心をかけて行動したことが、いつの間にか「してやっている」の恩着せ心になり、その思惑がはずれると怒りの炎が燃え上がってしまう、ここに人間の悲しい実態がここにあります。

 

おそらく餅を贈った最初の年は、送られた人もどんなにか感謝したと思うのです。
感謝状も多数寄せられたでしょう。
それが続くうちにいつしか贈られるのが当たり前になってくる。
感謝状の枚数も減り、あげくの果ては「今年のもちは小さいなあ」の不平の声になっていく。
こんな時、ついカッとなってしまうのも「してやった」の恩着せ心があるからです。

 

与える側の者は、お釈迦様がおっしゃる通り『三輪空』に心がけなければなりません。
それが今回『三輪空』というテーマで言わんとしていることなのですが、一方、受け取る側となったら、そういう怒りを相手に抱かせてはならないと反省させられます。
何でも人間は当たり前にしてしまいます。
一回きりの餅のプレゼントより、毎年毎年贈るプレゼントの方がずっと大変なのですから、本来、贈られる側としては、続けて贈ってくる年数が重なれば重なるほど、感謝も増していかねばならないないはずです。
しかし続くとどうしても当たり前になっていくものです。

 

夫が給料を持ってきた最初の月は感謝する。
(有難いな、夫のおかげでこんな生活できるんだな)
明細書の封筒を両手で押し頂いて「ありがとう。ご苦労様」と笑顔を振りまく
それがどうだろう。
何年もすると、給料の明細書を「ほれ」と横柄に手を差し出して、見せろと迫るようになる。

 

夫も夫で、帰宅するとあったかい手作り料理があると最初は感謝する、
ありがたいなぁ、と感激する。
しかしそれも数年もすると、出ている手料理も「食べてきた」の一言で済まそうとする。

 

夫婦はお互い「こんなにしているのに」と積もり積もって、いつしか亀裂が広がっていくというケースが多いようです。

 

自分が与える立場の時は「こんなにしてやっている」の心を忘れるように努めていかねばなりません。
自分がもらう立場である時は、続けてくれればくれるほど、それを当たり前にせず、感謝の心を失ってはならない、ということですね。
難しい心がけですが、一歩なりとも前進していきたいものです。

 

「情けは人のためならず」と仏教の『三輪空』

誰かのことを心配し、幸せになってほしいといろいろしてあげたのに、その人から感謝もされない、お礼もない、向こうは当然のように受け流しているとなれば、怒りの心で身を焦がすことになる、そんな人間の実態を種々お話ししてきました。
(あ~あ、こんな思いするくらいなら、あいつに親切なんかするんじゃなかった)と後悔し、(人に構って結局傷つくくらいだったら、最初からしない方がましだった)と考えてしまいがちです。

 

ここで誤解してもらいたくないのは、お釈迦様は決して“親切をしたから”苦しむことになる、とは言われていないということです。
そう考えるのは間違いです。
“私が”“誰々に”“何々を”この三つを忘れられないから苦しむのですよ、と説かれているのです。

 

親切自体は素晴らしい善行ですから、実践する人は幸せになれますよ、と一貫して説かれています。
人に要求することばかりの人は幸せにはなりません。
そんな人は「~してくれ」「~させてくれ」「なんで~してくれないのか」と上司や家族を責めることになり、周りから人は離れていきます。

 

逆に周りの人がどうしたら楽しく過ごせるだろうか、安心してもらえるだろうか、とつねに周りのことを考えて行動できる人には、人も物も自ずと集まってくることでしょう。

 

【まいた種は必ず生える】しあわせのタネをまくのですから、しあわせの花が咲くのです。
古人はこれを『情けは人のためならず』といいました。
人に情けをかける、親切するのは、人のためではないんですよ、親切する人の徳になり、与える人本人が光を放つ人間になれるのですよ、と説かれています。
あの人のためにやっているんだ。あの人のためにしてあげてるんだ。人のため、人のため、と思い続けるものではありませんよ、というのが「情けは人のためならず」。
布施をすること、人に与えているのは、自らの徳と信用の元を築いてるのですよ、ということわざなのです。

 

 

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