仏教に教えられる煩悩に「名誉欲」があります。
お釈迦さまは名誉欲の奴隷となり、名誉欲に振り回されて、酔生夢死する人間の姿を至るところで説法されています。
名誉欲について、身近な例を通してお話ししたいと思います。

 

周りから見下げられないために命をすり減らしている

高度経済期、三種の神器といわれた「テレビ」「洗濯機」「冷蔵庫」。
これらが一般家庭に普及された頃の話です。

 

 

ある団地で、アンテナが立っていたので、集金に行ってみるとテレビがない。
事情を聞くと〝隣近所はみな持っているが、家では買えない。擬装せずにおれなかった〟 と打ちあけたそうです。
テレビが見られないのがいや、なのではない。
買えないのが辛い、のでもない。
あの家はテレビを買えないのか、と見下げられたくないという心が偽装させたのです。

人間の名誉欲の強さを知らされる話です。

恥をさらすようですが、高校時代、私の受験勉強の原動力になったのは、その大学では学びたい分野が充実していたから、でもなければ、尊敬する教授がいたから、でもありませんでした。
ただクラスメートや部活の友人から「どこの大学?」と聞かれたときに、恥ずかしく感じる大学はいやだ、という思いでした。
大学に入って、東京中の多くの学生と話をする中で、どこの大学だからといって、その人間性や人柄、知性とは関連性ないなあ、と経験から知るようになってからは、こだわってレッテル貼っていた学歴信心はなくなりましたが、当時は大学のブランドにこだわっていたものです。
みんながテレビを持ち始めればテレビを持たないと恥ずかしくなり、

みんなが受験勉強始めれば自分も大学行かないと恥ずかしくなり、

みんなが髪染めたら黒髪が恥ずかしくなり、

みんながお国のためと戦争を始めれば自分も参戦しなければ恥ずかしくなり・・・
ねずみが集団行動で移動中、一匹のねずみが誤ってがけに落ちると、そのねずみに先導された後続のねずみが崖から海に落ちるという話を思い出します。

 

人前で叱られたことが何年経っても忘れられない

任侠の大親分だった清水の次郎長は
「ほめるときはみんなの前でほめる。叱る時はその人だけ呼んで叱る」
と言っています。

 

 

やはり多くのやくざを束ねた清水一家の大親分だけあって、人間の心の機微を熟知していたのでしょう。
私たちは人前で恥をかかされると、死ぬまで忘れません。
「何もあんなこと、みんなの前で言わなくてもいいではないか!」と怒り心頭です。
たとえそれが正論であっても、怒りでその忠告を聞けなくなってしまいます。
一対一で静かに注意されれば「その通りだな。こうして注意してくれるのはありがたいな」と聞ける忠告でも、人前だと、もう聞けなくなってしまいます。
「恥かかされた」という思いが先に立って、冷静になれません。
「死ぬまで忘れられない」の怒りの深さは、「周りからよく思われたい」という名誉欲が如何にわれわれにとって大きいものかを物語っているようです。

 

中身よりも、どう見えるかに関心が高い

“できると思わせる”ためのハウツー本が、注目を集めています。
“できる人になる”かどうかはともかく、”できる人と見られたい”という切実な思いからでしょう。

 

転職セミナーには、「できると思わせるポイント」「人事担当者に会ってみたいと思わせる応募書類の秘訣」などのテーマが並び、人気を呼んでいます。
「『やさしい男』に見せる法」「『知的な男』に見せる法」などの目次が並んだ恋愛術の本も売られています。
年末には、「いいお嫁さんと思わせる帰省術」なる特集が、婦人雑誌で組まれたりします。
実際に「オレはやさしい男なのか」こそ問題にすべきなのに、「やさしい男だ」と見られさえすればいいという生き方はどこかおかしい。
「知的だな」と印象付けることができたら満足、というのもいかがなものか。
帰省先で「いいお嫁さん」と思わせることができたら、成功といえるのか。
「実際はいいお嫁さんでなかった。」と発覚してよけい関係が悪くなるかもしれないのに。
「同行の前にては喜ぶなり。これ名聞なり。信の上は一人居て喜ぶ法なり」(御一代記聞書)
大勢の前で「私は幸せです」「人生ってステキだと思います」と広言する人がいますが、そんな人ほど、心の中は逆の場合が多いように思います。
一人になるとさびしくて、枕を涙でぬらしているものです。

人前では幸せな自分を演出し、テレビに映る時は最大限、そういう自分をアピールしなければ、と気合を入れますが、それを蓮如上人は「これ名聞なり」と言われ、「褒められたいから」「よく言われたいからだ」とすっぱ抜かれています。

「あんなに喜んでいるなんて、ステキだな、あこがれるなあ」と思われたい。
「いい人生を送っている人だな」と褒められたい、そんな名誉欲でしょう。
「周りがうらやむような生活をしているかどうか」が問題ではなく、「自分自身が幸福感に包まれた生き方をしているか」こそ問題のはずです。
本当に幸せな人は、大衆に「私は喜んでいます」とアピールしたり、公言する必要はありません。
絶対の幸福は一人で喜べる幸福です。
褒められたからと言って、喜びが増えるわけでなし、謗られて喜びが減るわけでもない。
一人で十分なのです。

 

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