三業とは何か

夏目漱石はイギリス留学中、漱石は日記にこう書き記しています。
「真面目に考えよ、誠実に語れ、摯実に行え。汝の現今にまく種はやがて汝の収むべき未来となって現るべし」
漱石が仏教を学んでいたからこう書いたのか、あるいは彼の経験則から培った信念なのか、真相はわかりませんが、この日記の言葉は「自分が現在まいている三つの種が、自分の未来を生み出す」と説く仏教の教えに通じます。
【三業】という仏教の言葉があります。
「業(ごう)」とは、インドの言葉で「カルマ」、日本の言葉では「行為」のことです。
その「行い」に三通りあるので、仏教では「三業」といわれます。
三業の三つとは【意業】【口業】【身業】です。
【意業】とは、心で思うこと。
【口業】とは、口で言うこと。
【身業】とは、身体でやることです。
今、あなたがこの文章を読んでおられるのは、あなたの【身業】。
誰かと話しをしていれば、それはあなたの【口業】。
この文章を読んで心の中でいろいろ評価されるでしょうが、それは【意業】です。
「お前だろ、やったのは!」
「何もやってない。俺はあの晩、早く寝たんだから」
「うそをつけ、夜中1時過ぎにお前が彼女の部屋から出てきたのを見たという目撃者がいるんだぞ」
「・・・・・・」
こんな場面、ドラマにありそうですが、これはその人が実行したこと、いわゆる【身業】を問題にしている場面です。
「お前、彼女になに言った!?」
「何も言ってない」
「言っただろ!?彼女、泣いてるじゃないか!」
「知らない、言ってないし」
これは、その人が口でしゃべった【口業】を問題にしている場面です。
一方、仏教では
「今、何を思ったか?」
「思っただろ?そういうこと」
と、思ったか、思ってないか、【意業】をもっとも重視します。
「やったか、やってないか」「言ったか、言ってないか」よりも「思ったか、思ってないか」を問題にするのです。
ここは仏教と世間一般の法律・道徳と大きく違う点です。
法律・道徳で問題にされるのは、手にかけて殺したかどうかであって、「ぶっ殺してやる」とののしっただけで逮捕されることはあり得ませんし、まして「殺してやりたい」と思ったからといって逮捕されることはありません。
実際に行動にあらわせば人に害を及ぼしますし、口で発すれば人を傷つけたり、腹を立てさせるから慎まねばなりませんが、心で思うくらいなら、誰に迷惑をかけるわけでもないから別にそんなに問題にしなくていいと考えるのが一般的です。
ところが仏教では「言うこと」「やること」よりも、もっと問題が「思うこと」だ、と言われるのです。

 

徹底的に自己を見つめる仏教

「何をやったか」「何を言ったか」だけを問題にするのではなく、「何を思ったか」を仏教では問題にします。
ここまで問題にされたらどうですか。
何て厳しい基準でしょうか。
手のひらも肉眼で見ると、別に汚れてもおらず、キレイに見えます。
虫めがねで見ると、汚れが発見できることもありますが、それでもキレイに見えます。
ところが電子顕微鏡で見れば、どうでしょう。
白くしなやかな女優の手のひらも、電子顕微鏡で眺めれば、大腸菌や細菌がうようよして、思わず眉をしかめることになります
警察の取調は所詮やったかやってないか、身業を問題にするだけですから、「法律」は【肉眼】で見た手のひらのようなもの。
身体の行いのみならず、口の行いまで問題にして裁く「倫理道徳」は、【虫めがね】に例えられます。
そうなると、「仏教」は、心の底まで徹見するので、【電子顕微鏡】といえましょう。
「心の中くらい、別になに思ってもいいじゃないか。人に迷惑かけるわけじゃないんだし」
そう思う人もあるでしょうが、釈迦は身体で何を行ったか、口は何をしゃべったか、その身体や口の行いよりも、もっともっと重い責任があるのが
心の行いだと喝破しています。
なぜなのでしょうか。

 

仏教はなぜ心を重視するのか

なぜ仏教では口で言うことよりも、身体でやることよりも、心で思うことを重視されるのでしょうか。
それは、心で思う『意業』こそが、口や身体の行為の元だからです。
何か人を傷つけることを言ったとしたら、これは口業ですが、言われた人は何を傷つくのかといえば「自分のことをこんな風に思っていたのか、この人は。。」と【その人が思っていたこと】にショックを受けるのではないでしょうか。
心が命じたから、その人の口から出たのです。
心で思わないことを口が勝手にしゃべる、勝手に身体が動くということはありません。
「失言、失言、忘れて、忘れて」と言われたって、その人の口に出たのは、やはりその人の心の現れでしょう。
心にないものは口に出てきませんから。
浮気する人がいますが、それも「いいじゃん、浮気しても。ばれなきゃ問題ないよ」と心がそのように思ったから、身体がその方向に動いたのでしょう。
今日、あなたはどこでこの文章を読んでおられるのですか。
その場所にあなたを運んだのは、他ならぬあなたの身体の行為(身業)ですが、そもそも「今日はここに行こう」と心が思わなければ、今そこにはおられないはずです。
「行こう」と心が動いたから、今、そこにおられるのではないですか。
違う選択肢もあったはずです。
選んだのはあなたの心です。
あなたの今の立場、環境、ついている仕事、あなたを取り巻く人間関係、それらすべて自分の心が選んだ結果です。
心と口や身体の言動との関係は、あたかも川の上流と下流のようなものです。
上流に塗装工場の赤いインクを大量に流し込めば、下流は赤く染まります。
逆に上流に青いインクを流し込めば、下流は青く染まります。
我が家が下流にあり、家の前の赤い川を何とかきれいにしたいと、いくら家の前の川の水を汲んでもだめです。
上流まで行って汚れの元を正さなければ、百年たっても川はきれいになりません。
「オレはこの事業に人生を懸けているから」と言いながら、面倒なことは人にやらせたり、根気が続かず何かと怠けるのは、その人の本心は、その事業に人生を懸けていないのです。
心が本気でないのは、その人の日常生活に如実に表れるから、すぐわかります。
本当にそのこと一つに懸けている人は、誰が見る見ないは関係なく、寝食忘れるような勢いで取り組みます。
ビジネスやアートなど各界の成功者に「自分もあなたと同じようになりたい、どうしたらいいか」と聞いてくる人はたくさんいるそうですが、それらの人たちを見て成功者たちがよく言うのは「本気の人はいませんね」という言葉です。
「『こうしたらいいよ』『こう言えばいいよ』とどれだけアドバイスしても、『しない』『しても続けない』で終わる人ばかりだ」と。
それは成功者が、まだ駆け出しの時に心に秘めていたような、本気の心がないからです。
上流に青いインクを流していないのですから、下流が青くならないのは当然なのです。
常に仏教が、心を問題にする教えだ、といわれるのは、こういう理由からです。
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